自分を本当に縛っているのは何か

妻子があり家と車のローンがあって仕事をやめることができない、転職も容易にはできない。会社には従順にせざるを得ず、望まない転勤にだって従わざるをえない。そして「独身はいいよなあ」といった言葉を周囲の独身者に漏らしがち。

彼らはテンプレのような属性であり、将来への不安はそれほど感じていないと推測する。また、周囲からは(上位寄りで)普通の存在として認められている。それだけのものを持っているという自負もあるのだろう。

きっと周りにもこういう人がいると思う。そのような人がなぜ毎日働いているのか?理由はもちろん「家族のため」である。

「大事な人のために働く」という気持ちはわからないでもないが、それを働く名分として嫌でも仕事をせざるを得ない日々に意義を見出し、その状態を自分に納得させているだけなのかもしれない。

「自由が欲しい」という発言は独身者への配慮かもしれないし、ただの当てつけなのかもしれない。

思考停止で他者のために働いたとしても、必ず報われるとは限らない。例え見返りを求めていなかろうが、数十年ひたすら働いたとして、過ぎた時間を本当の意味で自ら正当化できるかはわからない。

息子や娘の成長を生きがいに単純労働に精を出す、つまり忍耐に忍耐を重ねる、というのも人間の一つの生き様かもしれない。なぜならその人たちにとっては、それが「楽しみ」なのだからである。しかし、多くの場合、「何と空しいことか」と、後になって嘆く人たちも多いはずだ。息子や娘たちは、中にはたいそう感謝してその後も大切にしてくれるものもいるが、多くは「何でもっと頭を使わなかったの」という、親にしてみれば天地がひっくり返るような言葉をこともなげに言う人間が、この世には実に多いのだ。そんな時になって腐っても、オーブンの中の七面鳥と同様、後の祭りでしかない。もうとっくにクリスマスはすぎてしまっている、と言うものだ。

思考は現実化する ナポレオン・ヒル著 田中孝顕訳

この例は極端かもしれないが、思考停止で毎日を過ごしていると取り返しのつかない悲劇に見舞われる状況をズバリ言い表していると思う。

独身の人であっても何となく毎日仕事をしている感じではないだろうか?自分が本当は何をやりたいかということをあまり深く掘り下げて考えることもせず、惰性で生きるようになってしまっていないだろうか。今後、時間の使い方に関して後悔することはないだろうか?

私は「自分が望んだ時間の使い方をどれだけできたか」が、長期的に過去を正当化する唯一の方法だと思っている。

結婚しているからといって、ローンがあるからといって、生きている限りそれを放棄してはいけない。

「時間さえあれば」「お金があれば」

このようなことを言い出す人も多い。お金があれば会社をやめる人は多いだろうが、お金を手に入れても毎日暇すぎて結局また仕事を始める人が一定数いる。

何かに縛られることがなくなった時、そもそも自分がやりたいことは何ぞやという難題に対峙することになる。

全く何もすることがない状態は、やりたいことが何でもできる状態ではない。

だから、時間やお金をのみ求めることは間違っているのかもしれない。それらは手段に過ぎない。だから、まずは会社を辞めようとするのは間違った考え方なのだろうと思う。

ただしかし、今なぜこうやって働いているのかは考える必要がある。ちなみに私はとりあえず周りに倣って新卒で就職し、今も同じ場所で働いている。

皆もこのような感じではないだろうか?

普通に大学まで卒業して就職して結婚して、と言うのは何となしに「あるべき人生」が頭の中に設定されているのではなかろうかと思う。

その範囲中で自らの希望を選択する、と言うことをひたすら繰り返す人生になっている。

この皆の頭にある共通認識としての「あるべき人生」こそが自分を縛っているものの正体だと考える。

これが良いものか悪いものなのかは判断がつきかねるが、自分らしく生きると言うことを考えた場合の足かせの一つになっているのは間違いないかもしれない。

人生の中で一度くらいはこの呪縛から完全に逃れて自由に生きたいものだと考えるが、何かを捨てることが必要なものであり中々実現が難しい。

ただし、「忙し過ぎて自分が本当にやりたいことが出来ず、もしくはそれが何かを考えることもできない」と言うのは闇の深いジレンマだ。日々働いていく中で、そのジレンマの中に緩やかに遭難してしまっていることは認識しなければならないだろうと思う。

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